聖書は何語で書かれたのか
ヘブライ語、一部はアラム語、そしてコイネー・ギリシア語。ただし面白いのはその一覧ではなく、手元にあるのがすべて写本の写本であるとき「原語」とは何を指すのか、という問いのほうです。
短く答えるなら三つです。ヘブライ語、アラム語、ギリシア語。正しい答えですが、それだけではほとんど役に立ちません。面白いのは一覧ではなく、書かれてから読まれるまでのあいだにその言語に起きたことのほうだからです。書き記されなかった母音、新約が存在するより前から出回っていたギリシア語訳、そしてどの巻についても著者の書いた原本が一枚も残っていないという事実。
ヘブライ語
旧約の大半はヘブライ語です。右から左に書くセム語系の言語で、時代による差がはっきりしています。最古層の詩——たとえば士師記 5 章のデボラの歌——のヘブライ語は、後代の巻のヘブライ語とかなり違います。研究者はこの差を年代推定の手がかりの一つに使いますが、どこまで重みを置けるかについては意見が割れており、時に激しく割れます。古風な文体は意図的に模倣できるので、古めかしいことは古いことの証明にならないからです。
聖書ヘブライ語は緊密な言語です。多くの語が三つの子音からなる語根に還元され、限られた語彙が広い意味範囲を引き受けます。翻訳がこれほど容易に分かれるのは、一つにはそのためです。英語や日本語が過去形で訳す動詞形が、実際には「いつ」を言わずに動作が完了していることだけを標示している、ということが起こります。語順が担う強調も、他の言語では語を足すか語調を変えるかしないと写し取れません。
母音のない本文
書かれたヘブライ語が記録したのは子音でした。母音は読み手の側にありました。言語を知っている人が補ったのです。日本語で言えば、漢字だけを並べた文を読み下すのに近い作業が、読み上げのたびに行われていたことになります。それはうまく機能します——語が本当に多義的になるまでは。そして、そうなる語は実際にあります。
六世紀ごろから十世紀ごろにかけて、マソラ学者と呼ばれる写字生たちが、子音の上下に打つ点と記号の体系を整えました。母音、強勢、朗誦の節回しを記し、それまで口伝で運ばれてきた読みの伝統を書き言葉として固定したのです。こうして成立したマソラ本文が、欽定訳聖書や和合本を含む、ほぼすべての旧約翻訳の底本になっています。
1947 年以降に見つかった死海写本は、それまで手に入る最古の写本よりおよそ千年古く、この伝統を検証することを可能にしました。大づかみに言えば、子音本文は驚くほど安定して伝えられてきた、というのが得られた結果です。同時に写本群は、同じ時期に複数の本文伝統が並行して出回っていたことも示しました。ギリシア語訳と一致してマソラ本文と分かれる読みも含まれます。それが何を意味するのか、写本の読みをマソラ本文に対してどれだけ重く扱うべきかは、決着した話ではなく、いまも続いている学術的な論争です。
アラム語
アラム語はヘブライ語の近縁で、何世紀ものあいだ近東の実務言語でした。アッシリア、バビロニア、ペルシアの各帝国のもとで行政と交易の言語であり、一世紀のユダヤでは日常の話し言葉でした。
旧約の一部はこの言語で書かれています。翻訳としてではなく、最初からアラム語で書かれた部分としてです。
- ダニエル書 2:4b から 7:28 —— カルデアの人々が語り出すところで本文が節の途中からアラム語に切り替わり、数章あとでヘブライ語に戻ります。
- エズラ記の複数の箇所 —— 主にペルシアの宮廷との文書と往復書簡です。記録の言語が公用語のまま残されています。
- エレミヤ書の一節(10:11)—— ほかはすべてヘブライ語の章の中に、ぽつんと置かれています。
- 創世記 31:47 の二つの地名句 —— ラバンが石塚にアラム語で名を付け、ヤコブがヘブライ語で名を付けます。
アラム語はギリシア語で書かれた新約の中にも顔を出します。訳されずに、音のまま保存されているのです。マルコによる福音書 5:41 の talitha cumi、7:34 の ephphatha、abba という呼びかけ、そして 15:34 の十字架上の叫び——福音書記者はそれを引用したうえで、理解できないギリシア語の読者のためにギリシア語に訳し直しています。福音書そのものはギリシア語です。その背後にどれだけのアラム語の素材があるのか——ある語録がアラム語で伝えられたのか、文書化された資料がアラム語だったのか——は議論の対象で、ある福音書がアラム語で書かれて翻訳されたのだ、という提案も非常に長いあいだ出されては反論されてきました。合意はありません。この問いは決着済みだと言う人がいたら、それは学界の結論ではなくその人の結論です。
コイネー・ギリシア語
新約はギリシア語、それも「コイネー」と呼ばれる種類のギリシア語です。コイネーとは「共通の」という意味です。アレクサンドロスの征服のあと、ギリシア語は東地中海一帯に広がり、それを母語としない膨大な数の人々の第二言語になりました。その過程で言語は単純化します。古典アッティカ方言の込み入った構文は薄まり、語彙は広がり、柔軟で実用的で、広く通じる言語になりました。
長いあいだ、新約のギリシア語は独自の特殊な方言だと考えられていました。古典作家のギリシア語と一致しなかったからです。ところがエジプトからパピルスが出はじめます。領収書、私信、契約書、買い物の覚書——同じ種類のギリシア語で書かれていました。宗教用の特別な方言ではなかったのです。東方属州の、ごく普通の書き言葉でした。この書物があれほど速く広まった理由の大きな部分がそこにあります。
ただし均質ではありません。ヘブライ人への手紙とルカによる福音書のギリシア語は磨かれています。ヨハネの黙示録は文法に軋みながら進みます。マルコによる福音書は平明で速い。翻訳者はその全部を承知していて、そしてたいていは再現できません。
七十人訳、そして引用が一致しない理由
紀元前三世紀には、ユダヤの外に住むユダヤ人のほうが中にいる人々より多くなっていました。その多くはヘブライ語よりギリシア語をはるかに楽に読みました。ヘブライ語聖書はその後の二世紀ほどをかけてアレクサンドリアでギリシア語に訳され、七十人ないし七十二人の翻訳者が作ったという伝承から、七十人訳と呼ばれています。
これがふつうの読者に関わってくるのは、きわめて具体的な一点においてです。新約の書き手が旧約を引用するとき、彼はしばしばギリシア語のほうを引いています。その箇所を自分の旧約——ヘブライ語マソラ本文から訳されたもの——で引いてみると、語句が合わないことがあり、まれには意味も違います。これは不注意ではありませんし、改竄の証拠でもありません。一世紀の書き手が、自分の読者の持っている版を引いた、というだけのことです。
七十人訳とマソラ本文の違いは語句にとどまりません。ギリシア語のエレミヤ書は大幅に短く、配列も異なります。追加の材料を含む巻もあります。伝統によって聖書の目次が違う理由の一つが、ここにあります。
「原語」とは何を指すのか
自筆原本——著者が実際に書き上げた文書——は残っていません。一つもです。パピルスや羊皮紙はたいていの気候で長持ちしませんし、文書は読まれ、写され、擦り切れていきました。手元にあるのは写本の写本です。新約についてはギリシア語で数千点、それにラテン語、シリア語、コプト語への初期の翻訳。旧約についてはマソラ写本、死海写本、サマリア五書、そしてギリシア語の伝統。
したがって研究者が用いる印刷されたヘブライ語本文とギリシア語本文は、再構成です。慎重で、論証を伴い、注記を備えた再構成であり、編者は自分の選択の根拠と、退けた別案とを併記します。編集方針が違えば再構成も違ってきます。欽定訳の背後にあるギリシア語本文と、現代訳の背後にあるギリシア語本文が同一でないのは、まさにそのためです。この不一致は技術的なもので、双方が論拠を公刊しており、そして未決着です。だから「原語」というのはやや緩い言い方になります。それは、写本の伝統を通して到達される、ある巻が書かれた言語のことであって、机の上に置ける一枚の文書のことではありません。
このアプリにできること、できないこと
Verses が収めているのは欽定訳聖書と、簡体字・繁体字それぞれの和合本です。いずれも翻訳です。ヘブライ語の欄もギリシア語の欄もインターリニア本文もないので、このページに書いたことをアプリ自身で確かめることはできません。それには辞書か、インターリニア版か、校訂本文の異読欄が要ります。このアプリはそのどれでもありません。
日本語の読者にはもう一つ書いておくべきことがあります。画面表示は日本語に対応していますが、本文に日本語訳は含まれていません。読めるのは欽定訳の英語か、和合本の中国語です。日本語の聖書本文を探しているなら、このアプリはいま探しているものではありません。
では何の役に立つのか。言語の違いがもたらす実際上の結果を見るには役立ちます。一節が一行のレコードで三つの本文を横に並べて持っているので、本文の言語を切り替えても読んでいる場所を見失いません。ある箇所を英語で読み、同じ箇所を中国語で読んで、同じ一文をめぐって二つの委員会が別々の判断を下しているところを見られます。ヘブライ語への接近ではありませんが、翻訳という作業が起きている継ぎ目を実際に覗くことにはなります。
限界を一つ。検索は節の本文の中の文字列を探すので、英語や中国語の語句は見つけられますが、ギリシア語の単語やストロング番号を引くことはできません。アプリの中にそれらは入っていません。
よくある質問
イエスは何語を話していましたか
日常の言語はほぼ確実にアラム語で、聖書と礼拝の場面ではヘブライ語、そして共通の第二言語としてギリシア語が通じる地域だったのでギリシア語もいくらか、というのが一般的な理解です。福音書はイエスのアラム語の言い回しをいくつかそのまま残し、そのあとギリシア語の読者のために訳しています。
新約にアラム語で書かれた部分はありますか
現在手元にある新約はすべてギリシア語です。その一部の背後にアラム語の資料や語録集があったのか、あったとしてどれほどの規模だったのかは、何世紀も論じられてきて合意に至っていません。福音書一巻がまるごとアラム語で書かれたという主張も存在し、そして反論されています。
なぜ新約の引用が自分の旧約と一致しないのですか
たいていは書き手が七十人訳、すなわちヘブライ語聖書のギリシア語訳を引用しているのに対し、あなたの旧約はヘブライ語マソラ本文から訳されているからです。同じ箇所の二つの版が、数世紀を隔てて引かれている、ということです。
原本の写本は残っているのですか
残っていません。どの巻についても自筆原本は現存しません。印刷されたヘブライ語版・ギリシア語版は写本から再構成されたもので、編者の根拠と別案が注記に示されています。
このアプリにヘブライ語やギリシア語の本文は入っていますか
入っていません。収めているのは欽定訳聖書と、簡体字・繁体字それぞれの和合本で、いずれも翻訳です。インターリニアも原語本文もありません。日本語の聖書本文も含まれていません。
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Verses は欽定訳聖書と和合本(簡体字・繁体字)を——いずれもパブリックドメインです——アプリ本体に組み込んで配布しています。巻の一覧、章の一覧、そして章を一続きの本文として表示しつつ節番号は残すリーダー。無料、アカウントなし、広告なし、解析なし、通信も一切ありません。