なぜ聖書の訳によって本文が違うのか
同じ節が訳によって違って読める理由は、切り分けられる五つあります。そのどれも「誰かが何かを隠している」ではありません。何が起きているのかを、どちらにも与せずに。
二冊の聖書を同じ節で並べると、違いはさまざまな大きさでやってきます。同義語一語のこともあれば、文の組み立てが変わっていることもあります。ときには一節まるごとが一方にはあって、他方では脚注に落ちている——読者を不安にさせるのはこれです。
その不安は理解できますが、たいていは的を外しています。二つの訳が食い違う理由は五つに切り分けられ、それぞれ独立に働いていて、そのすべてが聖書自身の序文と脚注のなかで公然と論じられています。ある節でどの理由が働いているかを見分けられるようになるのは本当に役に立つ技能で、覚えるのに一時間もかかりません。
日本語の読者には、身近な例が最初からあります。新共同訳と聖書協会共同訳と新改訳を並べれば、同じ違いの層がすべて見つかりますし、そもそも巻の名前からして揃っていません。新共同訳と聖書協会共同訳は「詩編」「フィリピの信徒への手紙」と書き、新改訳の系統は「詩篇」「ピリピ人への手紙」と書きます。これは訳の質の差ではなく、日本語の聖書用語をどの伝統から受け取るかという選択で、以下に述べる五つの理由の、いちばん表面に出ている層にあたります。
理由その一:訳しているもとの本文が違う
どの巻についても、著者の手になる原本は残っていません。残っているのは写しです。新約についてはギリシア語と初期の諸訳を合わせて厖大な数があり、数節の断片から完全な写本まで幅があり、無数の小さな点といくつかの大きな点で互いに食い違っています。翻訳のもとになるギリシア語本文を作るとは、一節ずつ、どの読みが書かれたものである可能性が最も高いかを決めていく作業です。この学問を本文批評といい、訳が食い違うのは、その編者たちが違う判断をしたからです。
新約——公認本文と校訂本文
欽定訳の訳者たちが用いたのは、エラスムスの 1510 年代から 1520 年代の版に発する印刷ギリシア語本文で、のちに「公認本文」(Textus Receptus)と呼ばれるようになったものです。当時の西ヨーロッパで入手できた写本から組み上げられたもので、その大半はビザンティン系統の比較的後代の写本でした。
十九世紀以降、編者たちははるかに古い写本を手にします。四世紀の写本、そしてさらに古いパピルスです。それらの証言を重く見て組み立てられたのが校訂本文です。古い写本になく後代の写本にある部分は、現代の訳ではふつう脚注に移されます。マルコによる福音書の結び、ヨハネによる福音書の姦通の女の記事、使徒言行録 8:37、ヨハネの手紙一 5:7 の三位一体的な文言が定番の例です。
ここは公平に書く価値があります。これは決着した話ではなく、いまも生きている学問上の議論だからです。多数派は校訂本文を支持します。古い証言のほうが源に近く、写字生は説明を書き足すほうが削るよりも起こりやすい、という理由です。少数派はビザンティン系統や公認本文を擁護します。一致する後代写本の数の多さそのものが、連続して用いられてきた伝統を表しており、古さだけで質が決まるわけではない、という理由です。どちらの立場も出版され、詳細に論じられ、実際に写本を読む人々によって保持されています。争われていないのは、写本に何が書いてあるかです。証拠はどの校訂版でも欄外の異読一覧に印刷されていて、誰でも確かめられます。
旧約——マソラ本文、死海写本、七十人訳
標準となるヘブライ語本文はマソラ本文です。ユダヤ教の写字生たちによって並外れた注意深さで伝えられ、中世初期までに現在の形に定まりました。旧約のほぼすべての翻訳がこれを土台にしています。
これに二つの証言が有益な複雑さを加えます。一つは 1947 年以降に見つかった死海写本で、最古の完全なマソラ写本よりおよそ千年古いヘブライ語写本を学者に与えました。大まかな結果は安心できるもので、本文が驚くほど忠実に伝えられてきたことを示しています。ただし異読も保存しており、マソラ本文の読みが難解な箇所でそちらを採る訳もあります。もう一つは七十人訳で、マソラ本文とは異なるヘブライ語本文を反映していることがあります。最も目に見えるのはエレミヤ書で、ギリシア語版は大幅に短いのです。マソラ本文から離れるとき、訳はふつうどの証言に従ったかを脚注で名指しします。
理由その二:形式的等価か、動的等価か
底本が完全に同じでも、訳者はなお、その語にどれだけ密着するかを選ばねばなりません。二つの極はふつう、形式的等価——受け入れ側の言語が許すかぎり原文の語と構造を再現する——と、動的等価(機能的等価)——読者に生じる効果を再現し、必要なら文を組み替える——と呼ばれます。
一方が誠実でもう一方がいい加減、ということではありません。形式的な訳は原文の曖昧さを保存しますが、これは実在する美点です。同時に、日本語や英語では何も意味しないヘブライ語の慣用句を逐語のまま手渡してきます。動的な訳は一度読んで分かる文をくれますが、代わりに、あなたが見る前に解釈の一部が済まされています。すべての訳はこの線分のどこかに座っていて、逃れられる訳はありません。言語どうしが写像しないからです。
具体的な例を一つ。ヘブライ語は、日本語なら「心」や「良心」と言うところで、しばしば「はらわた」や「腎」と言います。感情の座を別の臓器に置いていたからです。逐語で訳せば現代の読者は笑いますし、「心」と訳せば、語だけでなく一つの生理学を静かに翻訳したことになります。
理由その三:語そのものが曖昧である
方針の問題ですらない違いもあります。その語が何を意味したのかが、本当に決まっていないのです。
- 聖書中に一度しか現れないヘブライ語——ハパクス・レゴメノン——は、文脈と、同系の言語と、古代の訳者がどう理解したかから推測するほかありません。汚れた動物の一覧やヨブ記に何語も現れます。
- 主の祈りで「日ごとの糧」と訳されるギリシア語は、これ以外にはほとんど用例がなく、その意味は古代から論じられてきました。
- ヘブライ語は歴史の大部分を母音符号なしで書かれてきたので、子音の並びが複数の語として読めることがよくあります。マソラ学者は一つの読みを記録しましたが、訳者が別の読みを採ることもあります。
- ヘブライ語の動詞の形は、日本語や英語の時制に写像しません。預言者が起こることを述べているのか、すでに起きたことを述べているのかは、しばしば判断の問題です。
- ギリシア語の属格は複数の関係を同時に表せます。「キリストの信」は、キリストへの信仰とも、キリスト自身の信実とも読め、この曖昧さには実際に神学上の重みがあります。
こうした地点で二つの訳が食い違うとき、どちらも間違ってはいません。ヘブライ語やギリシア語が持っていた以上の明確さを、訳文のほうが要求されているだけです。
理由その四:句読点、段落、かぎ括弧
もとの写本にはそのどれもありませんでした。ギリシア語は続けて書かれ、しばしば語間の空白すらなく、読点も句点も引用符もありません。あなたの聖書にある句読点はすべて、編集上の判断です。
たいていの場合これは目に見えません。ときに意味を決めます。ルカによる福音書 23:43 で欽定訳は「Verily I say unto thee, To day shalt thou be with me in paradise」と読みます——「まことに、あなたに言う、きょう、あなたはわたしとともに楽園にいる」という趣旨です。ところが読点を一語うしろへ動かすと、「きょう」がどちらの句にかかるかが変わり、いつのことなのかについて文の言うところが目に見えて違ってきます。ギリシア語はこれを決着させておらず、実際に逆の句読を採る訳もあります。日本語訳どうしを比べるとき、読点の位置と、どこまでを「 」に入れるかは、まさにこの層の判断です。
かぎ括弧はもっと長い規模で同じ問題を起こします。ヨハネによる福音書で、ある発言がどこで終わり、どこから語り手の註釈が始まるのかは、ギリシア語には標示されていません。現代の各版は違う場所で引用を閉じますし、段落の切り方も同様に論の運びをある形にまとめていて、読者はそこに選択があったと気づかないまま受け取ります。
理由その五:訳者の枠組み
訳者は、訓練と伝統と一組の期待を持った人間です。曖昧な地点では、それらが「どの弁護可能な訳語が正しく響くか」に影響します。誰が意図するかとは無関係に起こることで、翻訳委員会がふつう複数の教派から編成され、その仕事が長く査読されるのは、まさにそのためです。最もよく現れるのは、長い神学史を持つ語です。「贖い」「宥め」の背後にある語をどう訳すか、旧約のある箇所を新約での用いられ方を先取りする形に訳すかどうか、原語がおそらく総称的である場所で性を持つ表現をどう扱うか。公に論争になるのはこの種の違いで、良識ある訳者たちが別々の答えに達します。
安易な二つの結論はどちらも避ける価値があります。委員会訳は中立な機械ではありませんし、主要な訳のあいだの違いが誰かの改竄の証拠であるわけでもありません。序文は方針を述べ、脚注は代案を掲げ、底本は印刷されていて、確かめたい人は誰でも確かめられます。
読者としてこれをどう使うか
- 二冊で読みが違ったら、まず脚注を見ること。たいてい理由が書いてあります——写本の異読、別訳の可能性、マソラ本文からの離脱。
- 手元の聖書の序文を一度読むこと。どの訳も最初の数ページで底本と翻訳方針を述べていますが、ほとんど誰も読みません。
- 詳しく調べるときは、直訳寄りの訳と読みやすい訳を並べること。両者が分かれる場所が、下にある本文が難しいことをしている場所です。
- 日本語や英語の一語だけを土台に議論を組み立てないこと。ほかの訳がその語をどう訳しているかを確かめてから。
- 節番号が飛んでいたら、削られたものではなく、読むべき脚注として扱うこと。
このアプリで訳を見比べる
Verses が同梱しているのは、世紀も言語も異なる二つの訳です。マソラ本文と公認本文から作られた 1611 年の欽定訳と、簡体字・繁体字で収めた 1919 年の和合本。どちらもパブリックドメインです。現代の英語訳は入っていないので、欽定訳の読みを ESV や NIV の読みと突き合わせることはできません。
日本語の読者にはっきり書いておくと、本文に日本語訳は含まれていません。画面表示は日本語にできますが、読めるのは欽定訳の英語か和合本の中国語です。新共同訳や聖書協会共同訳や新改訳を並べて比べたいのなら、それはこのアプリの用途ではありません。
できるのは言語をまたぐ比較で、これは引っかかりなく行えます。一節が一つのレコードとして三つの本文を横に並べて持っているので、本文の言語は設定ひとつであり、切り替えても場所を見失いません。同じ節が、同じ画面で、別の本文になるだけです。英語と中国語の両方を読む人にとっては、三百年隔たって、異なる底本から、まったく異なる言語へ向かった二つの訳が、どこで別の場所に着いたのかを見る手早い方法になります。
限界も書いておきます。二つの訳を同時に並べる対訳表示はありませんし、ヘブライ語やギリシア語の本文も入っていないので、下にある語についての問いを決着させることはできません。本文上の問いには校訂版の異読欄と辞典が要ります。それはこれとは別の種類の道具です。
よくある質問
なぜ手元の聖書は節番号を飛ばしているのですか
欽定訳の背後にある写本より古い写本に基づく校訂ギリシア語本文から訳しており、それらの写本にその箇所がないからです。黙って取り除かれるのではなく、ほぼ必ず脚注に印刷されています。この不一致は文書化されていて、何世紀も前からのものです。
いちばん正確な訳はどれですか
この問いに単一の答えはありません。語への正確さと意味への正確さが別の方向へ引っ張るからです。形式的な訳は原文の構造と曖昧さを保存し、動的な訳はその趣旨を自然な文で伝える代わりに解釈を少し済ませてしまいます。順位を付けるより、両方の型を一つずつ読むほうが役に立ちます。
公認本文と校訂本文はどちらが正しいのですか
本当に論争中です。多数の本文批評家は、証言が古いことを理由に校訂本文を支持します。少数派は、写本による支持の広さと連続性を理由にビザンティン系統を擁護します。両者とも論拠を公刊しており、写本の証拠そのものは誰でも検討できる形で印刷されています。
死海写本で旧約は変わりましたか
劇的な意味では変わっていません。主な効果は、ヘブライ語本文がおよそ千年にわたって非常に忠実に伝えられてきたことを示したことです。異読も保存しており、伝統的なヘブライ語本文が難解な箇所でそちらに従い、脚注に記す現代訳もあります。
日本語訳どうしで巻の名前が違うのはなぜですか
日本語の聖書用語をどの伝統から受け取るかが違うからです。新共同訳・聖書協会共同訳の系統は「詩編」「フィリピの信徒への手紙」、新改訳の系統は「詩篇」「ピリピ人への手紙」と書きます。指している巻は同じで、訳語選択の伝統が異なるだけです。
Verses で二つの訳を比べられますか
欽定訳と和合本を切り替えられます。一節が両方の本文を一つのレコードに持っているので、切り替えても場所はそのままです。左右に並べる対訳表示はなく、現代の英語訳も、ヘブライ語・ギリシア語本文も、日本語訳も入っていません。
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